心に残る患者さん ~ドクターズエッセイ~Vol.85(2016年2月号)

ドクターが忘れがたい患者さんについて語るリレーエッセイ。
(先生の肩書は掲載当時のものです)

大平 整爾 先生   

札幌北クリニック 顧問

「ありがたし 今日の一日(ひとひ)も わが命
 恵みたまえり 天と地と人と」

 透析医療に50年余も携わってきましたので、多くの患者さんに出会いました。哀しく辛く切ない思い出も少なくありませんが、同時に嬉しく楽しく喜びの思い出も多々あります。どれも、私のその後の医療活動に活力を与えてくれ、励まし続けてくれてきました。

 維持血液透析(HD)は命を永らえるという大名目があるにせよ、いろいろな制限があり医療者の目からみてもそれ程簡単な事業ではありません。時には患者さんに、生活の根本に関わる行動の変化を求めるという仕儀にもなります。患者さんに非常に難しい課題の解決を迫ったり、患者さんを含むご家族の生き方そのものに結びつく諸々に変化を求めざるを得ないことがあります。患者さんの年齢や置かれた社会的な立場によって、これらは大きく様変わりをしますが、その負担を当の患者さんとご家族が負うことになります。そして、同時にこうした事態を生み出した状況に医療者も悩むものです。このところ年間約3万人の新規導入患者が出ておりますが、その数だけのドラマが生まれているのだと思います。

 すぐに頭に浮かぶ患者さんがいます。39歳、中堅会社の係長で、夫人との間に9歳と6歳の可愛い女児に恵まれています。極めつけの働き者で、課長昇進間近という時に異常な高血圧で倒れて私共のもとへ担送されたのでした。末期慢性腎不全と診断され即刻のHDが施行されました。短時間のHDを4日間継続して一般状態は安定したのですが、この間の出来事を患者さんは全く記憶していません。HD継続の必要性の説明を本格的に始めたのですが、まるで聞く耳を持っていません。拒絶の最大の原因は、治療が命ある限り続くこと、週3回、1回の治療時間が4~6時間に及ぶということにありました。「これでは、仕事が出来ない」というわけです。「仕事を前のように出来ないのなら死んだ方がいい」とまでいう始末ですから、こちらも言葉を尽くしてあれこれと説得いたしました。仕舞いにはこちらのいいようを「巧言令色(こうげんれいしょく) 鮮(すくな)し仁」とまでいわれたうえに、とうとう「透析をしないというのは自己決定ですから」と宣言し黙りを決め込んでしまいました。1日置いて翌朝、まだ目を覚ましていない彼のベッドの枕元に、メモを置いてきました。その日から学会へ行かねばならず、何かを言い残していくべきと考えたからです。
「ありがたし 今日の一日(ひとひ)も わが命 恵みたまえり 天と地と人と(佐々木信綱)。あなたの命は、あなただけのものでは決してない。あなたの命に、共鳴する人がたくさんいます。私共医療スタッフもその一部です。そのことをお忘れなく。」

 心を残して学会へ出かけて数日後に帰院したところ、奇跡が起きていたのです!入れ替わり立ち替わり彼を勇気づけるスタッフの言動は煩わしかったにせよ大きな力であり、それに佐々木信綱の歌は彼の心の琴線に触れたのだと思います。便せんに自筆で書いたのがよかったのかも知れません。出張帰りの私を彼は照れくさそうに迎えてくれて、一言だけいいました。「やってみますね、先生」。彼は生活信条を大幅に換えて、「透析と家族」と共に生き抜く決意をしてくれたのでした。夫人とお嬢さん二人の強力な助っ人がいました。あれから10数年、会う度に「先生に貰った命を大切にしてます」といってくれます。医者冥利に尽きるのです。

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