腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 松村満美子がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです)
大野 政典 さん(おおの まさのり:1943年生まれ、自営業)
妻から腎臓をもらって17年 趣味に海外旅行にと楽しめるのは妻のお陰、ただただ感謝!!
1943年12月生まれ、72歳。40代前半に会社の検診でIgA腎症が発見される。1988年腹膜透析(CAPD)導入。1994年血液透析(HD)に移行。透析をしながら趣味のゴルフや旅行を楽しんでいたが、米国旅行中に移植のすばらしさを知り、1999年妻の賀代子さんより腎臓を提供され移植。17年たった現在も異常なく、夫婦共に元気に毎日を楽しく暮らしている。
なんでも食べられるし、アクティブに動けるので、
性格も明るくなりました!
働き盛りの40代前半でIgA腎症が見つかった大野政典さんは、6年の腹膜透析(PD)を経て、血液透析(HD)をしながら仕事を続けていました。ゴルフや家族旅行も透析をしながら楽しむ日々でしたが、家族旅行でいったアメリカで移植の素晴らしさを知り、奥様の賀代子さんから腎臓を提供してもらい、移植に踏み切りました。レシピエントのご主人とドナーの奥様、お揃いでお話を伺ってきました。
血液型不適合でもクロスマッチでOK
松村 |
奥様から腎臓をいただいて移植なさったそうですが、いつですか? |
政典 |
1999年です。今年で17年になります。 |
松村 |
移植の話しは奥様から言いだされたのですか? |
賀代子 |
どっちが先というのではないのですが、血液透析(HD)をしているときにたまたまアメリカにいる友達のところに遊びにいって、移植の可能性があるという情報を知り、さらに移植の素晴らしさも聞いて、ぜひやりたいと思ったんです。 |
政典 |
当時は仕事をしていましたので、帰国してから上司に相談したところ、海外での移植にもOKがでたので、それから真剣に考えました。 |
賀代子 |
主人の親は高齢でしたし、姉が二人いるのですが、「腎臓をください」とはとても頼めませんでした。 |
政典 |
それでも「どうしても移植がしたい」と思い、海外での移植も考えたのですが、以前に診ていただいていた横浜市南部病院の尼ヶ崎安紘先生から「買った腎臓については一切面倒をみない」といわれ、思いとどまりました。 |
賀代子 |
本当に、藁にもすがる思いでした。でも尼ヶ崎先生に率直にご相談したおかげで、「じゃ、奥さんどうですか?」と、いってくださったんです。 |
松村 |
血液型は同じなんですか? |
賀代子 |
いえ、違います。適合データとかについてはなにも知りませんでしたけど、「できるならやりますから調べてください」と、検査を受けました。 |
政典 |
そしたら、6つあるリンパ球のクロスマッチが3つ適合して、夫婦でこんなに合うなんて珍しいといわれました。 |
松村 |
血液型不適合の移植ができるようになったころですね。今では、ABO型が違っても、リンパ球クロスマッチの相性がいいと、生着率がいいんですよ。それでお二人ともその後の調子はいかがですか? |
政典 |
二人ともとても元気で、まったくなにもありません。 |
賀代子 |
もし私の具合が悪かったら、主人はとても悲しむことになりますけど、二人共こんなに元気でいられるので、悩んでいる人たちには、ぜひお勧めしたいと思います。 |
仕事を続けながらPD、HDを経験
松村 |
原疾患はなんですか? |
政典 |
IgA腎症です。会社の健康診断で指摘されました。40歳になったばかりでした。 |
松村 |
治療はきちんとしていたんですか? |
政典 |
1~2ヶ月に1回病院にいき、塩辛いものは避け、タンパク質制限もいつも頭の片隅にありましたが、年齢的にも責任あるポストを任されていたので、制限が甘かったかもしれないと思っています。 |
松村 |
いつから透析を? |
政典 |
1988年です。仕事と両立したかったので腹膜透析(CAPD)を選びました。 |
松村 |
透析液の交換はどんな間隔でなさってたんですか? |
政典 |
朝1回、会社で1回、夕方と寝る前の1日4回です。 |
松村 |
会社で透析液の交換をするのは問題ありませんでしたか? |
政典 |
会社がとても理解があって、そのために一部屋用意してくれました。仕事も負担が少ない部署に変えていただき、なんとかやっていました。 |
松村 |
腹膜炎は大丈夫したか? |
政典 |
導入したばかりのころにちょっと危なかったのですが、抗生物質で抑えることができ、その後は順調でした。でも6年目に腹膜炎を起こして、血液透析(HD)に切り替えました。 |
松村 |
HDは週3回でしたか? |
政典 |
月水金で、仕事を4時半で帰らせていただき、透析にいってました。 |
賀代子 |
HDになってからは本当に辛そうで、毎回、車で迎えにいっていたんですよ。 |
松村 |
夜ですか?それは大変でしたね。お子さんたちはどうしてたんですか? |
|
賀代子 |
あのときは本当に大変でした。私も仕事を持っていましたので、午後6時半くらいに帰宅して子供にご飯を食べさせ、義母の介護もしていたので、よくやったと我ながら思います。 |
移植後、賀代子さんが作った詩人生の午後花を愛で 琴の音を楽しみゴルフの打球に一喜一憂し時には新しい発見に他の国にでかけましょう 今を生きているという喜びで一杯ですいつまでも健康で今の幸せが続きますように |
|
松村 |
そんなご苦労があったから、移植についても理解があったんですね。 |
夫婦そろってアクティブで元気な老後
賀代子 |
私が、本当にあげたいと思ったのは、いつだかのお正月に、「おしっこがしたい」といってたのが印象的だったんです。本当に辛いんだなと思って。 |
松村 |
尿量はいつまで保ちました? |
政典 |
PDのときはまだ大丈夫だったんですが、HDにしたら急になくなりましたね。 |
松村 |
いつもドライウエイトまで戻せていたんですか? |
政典 |
一応は。でも仕事をしてると季節によっては飲量が多くなって水が溜まり、おしっこがでないのは辛かったです。 |
松村 |
移植でまたでるようになったときはどんな感じでした? |
政典 |
長いこと尿がでてないと、最初は痛いらしいんですが、私は大丈夫でした。ただ移植手術のあと体中が管だらけで動いちゃいけないといわれていたのが辛かったです。 |
松村 |
そのときは導尿ですよね? |
政典 |
そうです、管が一本外れ、もう一本外れと、一人でトイレにいったときは気持ち良かったですね。 |
賀代子 |
移植をしたら、砂漠にいっておしっこしようと話していたんですよ。 |
松村 |
いったんですか? |
賀代子 |
タクラマカン砂漠にいきました。あそこはトイレがないので、砂漠で用を足さなきゃならないんです。 |
松村 |
そうですか、移植になってから旅行も自由にいけるようになりましたでしょ? |
政典 |
実は、透析のときも年1回は旅行にいってたんです。 |
松村 |
それはすごい、どんなところにいかれました? |
政典 |
CAPDのときは国内で透析液をホテルに送ってもらいました。HDになってからは、台湾、オーストラリアのケアンズ、アメリカのサンホゼにいきました。 |
賀代子 |
ケアンズの施設はデラックスでした。海が見えて、豪華なリクライニングシートでとてもリラックスできるんです。 |
松村 |
透析の手配はご自分でなさったんですか? |
政典 |
旅行会社に頼むとやってくれるので、問題はなにもありませんでした。 |
松村 |
透析になると「旅行にもいけない」と嘆く方が多いのに、アクティブでしたね。 |
政典 |
透析の説明を受けたときに、「生活の質はさげないでできる」といわれたので、ずっと年に1回は家族で旅行にいっていました。ゴルフにもよくいっていましたね。 |
松村 |
それでも、やっぱり移植すると違うでしょ? |
賀代子 |
手術してすぐ目の色が変わりました。それから皮膚の色も変わりましたね。 |
政典 |
何でも食べれるようになったのは嬉しかったです。それとなにもつけずにいろいろなところをアクティブに動けるようになったので、自分の気持ちも明るくなりましたね。 |
透析のときが嘘のように、とても体調が良いです。 |
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松村 |
あの頃移植した方は10年くらいでダメになることが多いんですけど、17年で問題がないというのは、いただいた腎臓とよっぽど相性が良いんですね。 |
賀代子 |
先生からも、とても良い状態だといわれています。 |
政典 |
照れくさくてあまりいいませんが、もらった腎臓がよいからです。いつも「奥さんに感謝しなさい」っていわれています。 |
賀代子 |
私は老後を一緒に楽しく過ごしたいと思っただけなんです。今は二人で大正琴を習って、一緒に旅行にいき、快適に暮らしてます。晩酌も楽しみで、腎臓をあげて本当に良かったです。 |
インタビューを終えて
お元気で仲良く素敵なご夫婦でした。奥様の賀代子さんは明るく前向きな女性で、腎臓を提供されただけでなく、この奥様ならどんなつらい闘病生活でも、常に前向きに楽しく暮らしていらしただろうと思いました。移植前に絵を描く精神科の検査で、「こんなに明るい絵を描く人ははじめて」といわれたそうですが、納得です。移植後はお二人とも元気で暮らせることに感謝し、ひとりでも多くの方が同じような体験をしてくれればとのお気持ちから登場してくださいました。これからも、移植された奥様の腎臓ができるだけ長く保てばいいですね。
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