心に残る患者さん ~ドクターズエッセイ~Vol.111(2020年6月号)

ドクターが忘れがたい患者さんについて語るリレーエッセイ。
(先生の肩書は掲載当時のものです)

寺脇 博之 先生   

帝京大学ちば総合医療センター
腎臓内科 教授、腎センター長

果樹園経営と腹膜透析

 このエッセイを読まれる方の多くは、腎不全とともに生きておられる方、もしくはそれにかかわる医療者の方と思われますので、ここでは腹膜透析の形で腎代替療法を始められたある患者さんに関する思い出をご紹介したいと思います。

 20年ほど前のこと。当時70歳の手前だったその男性は、紹介状を持たず私の外来を受診されました。日に焼けた精悍なお顔が印象的な方でした。お話を伺ったところ、他の病院で「もう腎機能が低下してしまっているので、透析が避けられない」といわれたため、何とか透析を避けられないかと思い他の病院を受診してみたのだ…とのこと。早速いろいろの検査をおこないましたが、血液検査で極めて高度な腎機能低下が確認され、さらに腹部超音波検査で腎臓が高度に萎縮してしまっている状態が確認され、やはり透析は避けられない状況と判断されました。

 そのことを患者さんご本人にお話ししたところ、「透析をしたら果物をたくさん食べられないのでしょう。それでは私は生きていくことができません」とのお言葉。私が「一体どういうことなのですか?なぜ果物をたくさん食べられなければ、生きていくことができないのですか?」と伺うと、その患者さんはこのようにおっしゃいました。「じつは私は果樹園を経営しており、私の仕事は美味しい果物を売ることです。そして美味しい果物を売るためには、できた果物の味見をして、良いものだけを選んで出荷しなければなりません。透析をはじめたら、もう果物をたくさん食べることはできない…と、お医者さんからいわれました。しかし今、もし私が果物を作れなくなったら、私たちの家族は生きていくことができないのです。」

 この患者さんは、これまで通院していた病院で、腹膜透析の説明をまったく受けたことがないとのことでした。そこで、私は腹膜透析についてご説明し、腹膜透析では血液透析よりもはるかにカリウム制限が緩やかであることをお話ししました。すると、その患者さんは一も二もなく腹膜透析をご希望されたため、腹膜透析の形で腎代替療法を開始。腹膜透析の導入はスムーズにおこなわれ、患者さんはこれまで通り美味しい果物を作り続けることができたのです。月1回の外来では、いつも屈託ない笑顔を見せていただきました。

 さて、この患者さんには、未成年の一人息子さんがおられました。腹膜透析を開始して数年後、その息子さんは大学を卒業され、お父さんの果樹園を継承。肩の荷が下りたお父さんは、ちょうどその頃おしっこの量が減ってきたこともあって、腹膜炎のエピソードを機に腹膜透析を卒業し、悠々自適の血液透析ライフに移行したのです。

 この方の人生、ある一時には腹膜透析が最善の選択であり、やがて時がたち血液透析の方が向いている時期が訪れたのだと思います。このような、患者さんの置かれた状況に応じたその時点での最善の回答を提供できる、良き水先案内人―あるいは夢先案内人―を目指して、今後も研鑽を重ねていきたいと思っています。

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