体験談 / 一病息災 Vol.108(2019年12月号)
腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 松村満美子がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです)
(職業や治療法は、取材当時のものです)
- 移植
加納 鳴鳳 さん(かのう めいほう:1953年生まれ)
早大野球部の練習中に倒れ透析から腎移植を。書道に打ち込み45年、万感の思いを筆に託し個展を開催!
書道家。腎移植後45年。1953年12月宮城県鳴子生まれ、65才。3才でネフローゼ発症。選抜高校野球出場。早稲田大学に進学し野球に打ち込んでいるときに倒れ慢性腎不全と診断され透析導入。1973年母からの提供で腎移植。父親が経営する書道塾で後進の指導にあたりながら、東京の津金孝邦氏に師事。39才から連続して日展入選。宮城県芸術協会運営委員。河北書道展役員。
自分はいかに命というものにおびえながら生きてきたか…
腎移植後45年経過して、東北ではただ一人、お元気な書道家の加納鳴鳳さんが、腎移植をもっと多くの人に知ってほしいと個展を開催されました。選抜高校野球出場を経験した野球少年は、進学した早稲田大学で野球部の練習中に倒れました。辛い透析治療、お母さんの提供での腎移植。以来、書道に打ち込んで45年、心に映る思いを書に託してきました。その気持ちをじっくり話してくださいました。
移植45年の自分の書を見てほしい
松村 | 腎移植45年を記念しての個展とか。 |
加納 | 腎移植をしても元気に活動できると知ってもらいたくて、6月に大崎で、8月に石巻で開催しました。来年1月には仙台で開く予定です。 |
松村 | どうして今なのですか? |
加納 | 50年目にやろうと考えていたんですが、去年大腸ガンが見つかり手術したんです。 |
松村 | 初期だったんですか? |
加納 | 内視鏡で取れる小さなガンでしたが、移植した腎臓の位置に問題があり腹腔鏡で手術に臨むが、なにかあったら開腹といわれ、結局、開腹手術になりました。 |
松村 | 大手術になったのですね。 |
加納 | 4時間の予定が8時間になって。それで移植50年まで体力が保つか不安になり、やれるときにやろうと、45年目でやることにしました。 |
松村 | 腎臓病関係者の反響は? |
加納 | 筆を持った写真が新聞に載ったので、たくさんの方が来てくださいました。移植45年でこんな大作が書けるのかとインパクトがあったみたいです。腎移植を控えている方や、腎臓病で辛そうな方も何人かいらっしゃいました。 |
松村 | 病気について相談されたり? |
加納 | アドバイスはできませんが、私はこんな経験をしたとか、こんな先生がいますという話はさせていただきます。移植推進のポスターやパンフレットも配りました。 |
松村 | 1月は仙台のどちらで? |
加納 | 仙台メディアテークです。 |
松村 | 広い会場ですね、今までの作品もだされるのですか? |
加納 | 過去のものはだしません。これから書くのですが、会場も大きいのでかなり大きな作品になると思います。 |
松村 | どのくらいですか? |
加納 | 2メートル掛ける3メートルとかですかね。 |
松村 | それだけの大作になると体力が必要でしょうね。 |
加納 | 移植で復活した体力も45年もたつと合併症もでて落ちてきます。塩分1日6g、血圧をきちんと管理してなんとか保っているんですが。 |
松村 | 今の体調はどうですか? |
加納 | 9年前に動脈瘤が見つかり、それからクレアチニンががたっと落ちてしまって、今は1.51、eGFRは37です。不整脈もあるし昨年はガン、そんな日々だったので、実は15年ぶりの個展なんですよ。 |
松村 | 万感の思いがありますね。 |
加納 | 書が下手になったとかいわれても、今の65才の私をみてもらうしかないと思っています。今腎臓病で苦しんでいる患者さんたちに、このくらいはやれるんだと感じてもらえればいいのですが。 |
アパートの大家さんに助けられ病気を発見
松村 | 腎臓が悪いのが分かったのはいつですか? |
加納 | 1972年、19才で早稲田大学で野球をしてました。たまたまアパートの大家さんが透析をしていて、僕の顔色を見て腎臓が悪いに違いないといわれていたんです。 |
松村 | 具合が悪かったんですか? |
加納 | 3才のときにネフローゼをやったのですが、その後はなんともなかったんです。高校時代は息苦しくなったり、頭痛や吐き気がしたことがありましたが、まさか病気とは思っていませんでした。 |
松村 | それだけ症状があると、とても悪かったんですね。 |
加納 | あるとき吐いてしまって、大家さんが虎ノ門病院に連れていってくれ、三村信英先生に診ていただき、野球とか大学とかいっている場合じゃないといわれました。 |
松村 | それでどうしたんですか? |
加納 | すぐ宮城に帰り入院です。半年入院しても悪くなるばかりで、宮城野病院(現東北公債病院)に移って透析を導入しました。 |
松村 | いくつのときですか? |
加納 | 20歳です。当時の透析はすごかったんですよ。 |
松村 | 積層型(キール型)のころですね。今はみなホロファイバー型ですものね。 |
加納 | そうです。8時間透析をしても1gも水が引けないなんていうこともありました。 |
松村 | それでいつ移植を? |
加納 | 透析の藤倉先生が、「加納さんの状態で、透析で保たせるのは難しい。もしご両親の血液型が合うなら、腎移植を考えては」と、東北大を紹介してくれたのです。 |
松村 | その頃の東北大は腎移植に力を入れていましたね。 |
加納 | 僕は21例目で、非常に熱心でした。初診で堤栄昭先生が、「2月が空いているから」と、すぐ準備を始め、移植を受けることになりました。 |
松村 | 術後は順調でしたか? |
加納 | すぐ水が飲めるといわれていたのですが、移植腎がなかなか働かなくて、移植後にも何回か透析をしました。 |
松村 | 今は生体腎移植なら、即、尿がでますよね。 |
加納 | 5cc、15cc、30cc と少しづつ尿が出るようになり、20日目にやっと500cc出て、食事の許可が下りました。 |
松村 | 移植後はどうしたのですか? |
加納 | 移植前に母が「とにかく10年生きて。10年あればなにかできるでしょ。30才になって、それから結婚を考えてもいいし」といってくれたので、実家に帰って父親がやっていた書道塾を手伝うことにしたんです。 |
他人と競わず、自分の心に響く言葉を書く
松村 | 書道はお父さまがお師匠さんですか? |
加納 | 父は厳しい人で「一人っ子が跡なんか継いだらろくなものにならない。別の師匠を探せ」といわれ、僕は一人で東京の師匠を訪ねたんです。 |
松村 | どなたですか? |
加納 | 津金孝邦先生です。今は日展の参与ぐらいかな… |
松村 | 書道展に出していたんですか? |
加納 | 39才で2年続けて日展に入選し一目置かれるようになってきたんですけど…… 43才のときに母と女房がガンで倒れたんです。 |
松村 | 結婚なさっていたんですね。 |
加納 | 30才で結婚して、娘は小さかったし、稽古はやらなきゃいけない、先生のところには行かなきゃならない、すっかり参ってしまって、心臓がおかしくなりました。 |
松村 | 心臓がおかしいとは? |
加納 | 不整脈がでて。書道の仕事は頻脈になるとどうしようもないんです。筆が飛んで、作品が書けなくなる。 |
松村 | どう対処されたんですか? |
加納 | 書道から離れることにして、東京通いはやめたんですよ。 |
松村 | 看病と子育てに集中? |
加納 | 母も女房も回復したので、家族と一緒にいられるなら、それも人生かなぁ~と。4~5年は子どもたちを教えて過ごしてました。そうしたら宮城県の書道会から声がかかって、県のためになにかするように頼まれたんです。 |
松村 | おいくつのときですか? |
加納 | 47才ですね。そろそろ50才だし、移植して30年になるから、なにかしようという気にもなっていました。 |
松村 | それで? |
加納 | 宮城県の雄勝は硯すずりの産地なんですけど、硯の工人さんを訪ねて話を聞き、その言葉を書いて展覧会をしました。 |
松村 | 雄勝硯、有名ですね。 |
加納 | その頃、母が3度目のガンを発症していよいよ危なくなりました。それで急きょ、移植29年目に雄勝の硯の伝承館で展覧会を開きました。 |
松村 | お母さまはお喜びになったでしょうね。 |
加納 | 次の年に仙台銀行ホールイズミティ21で、硯職人が彫ってくれた硯を展示し、作品もたくさん加えて移植30周年の個展をやりました。 |
松村 | すばらしい。 |
加納 | 作品は雄勝に寄付したんですけど、3.11の津波で全部流されてしまいました。 |
松村 | 残念でしたね。そのときの展覧会の評判はどうでした? |
加納 | 皆さん喜んでくれました。僕の書はよく「けんか腰じゃない」といわれます。たぶん人より良いものを書きたいという競う気持ちがなく、自分が納得できるものを書きたいと思っているからだと思います。心が動いた言葉しか書かないと、いつも命に関わる言葉になるんですよ。 |
松村 | それはご病気とも関係あるのでしょうか? |
加納 | そうかもしれません、知らず知らずのうちに、自分はいかに命というものにおびえながら生きてきたかが表れる。それで今までの総括として、1月の展覧会では一回も発表していない言葉を出そうと思っているんです。「命」という言葉です。 |