体験談 / 一病息災 Vol.123(2023年1月号)
腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 雁瀬美佐がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
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中澤 弘貴さん(なかざわ ひろたか)
在宅透析で
家族と長く楽しく生きてゆく道
臨床工学技士として透析患者さんや透析機器のケア、24時間電話サポートや家庭巡回を務める日々。自らも血液透析歴27年。血液透析の知識と家族を持って、選んだ在宅血液透析はお金に代えがたい自由な時間と未来を与えてくれると語る、頼もしいお父さんです。
聞き手:雁瀬 美佐(腎臓サポート協会)
●ご家族:3男1女の6人家族
年齢(西暦) | 病歴 |
---|---|
1974年生まれ | |
12歳(1986年) | 中学1年時の尿検査でたんぱく4+ 「膀胱尿管逆流症」(腎盂腎炎)と診断され手術 |
20歳(1995年) | 風邪のような症状から嘔吐、血痰、呼吸困難で受診。「腎不全」と診断され緊急血液透析 週3回4時間の透析開始 |
32歳(2006年) | 施設血液透析から在宅血液透析に変更 |
48歳(2022年) | 現在、週4日1回8時間の血液透析 |
腎臓病から緊急血液透析へ
雁瀬 | 中澤さんは血液透析患者さんでもありながら、血液透析施設の透析技士として働いていらっしゃいます。ご自身の透析の経緯と臨床工学技士になられたいきさつ、お仕事と透析の両立などのお話をお聞きしていきたいと思います。 |
中澤 | 小学校低学年頃は運動が好きで同級生と比べてもできる方でしたが、だんだんと特に長距離が走れなくなってきて高学年になるととてもしんどくなり、仮病を使って体育の授業(マラソン)を休んだりしました。中学1年の時の健康診断で尿たんぱくが4プラスで、総合病院に行くように言われ、腎生検などの検査で「膀胱尿管逆流症」と診断されました。先天性の膀胱の奇形により腎盂腎炎を起こしているとのことで「持久力の低下は病気のせいだったのか」と自分なりに理解しました。膀胱尿管逆流症の手術(腎臓への逆流を止める手術)を受けましたが、術後1回受診しただけでそれ以後1度も病院へ行きませんでした。それでも日常生活は全く問題なくマラソン以外は普通に体育の授業も受けていました。 |
雁瀬 | その後、いつどのようなきっかけで透析治療となったのでしょうか。 |
中澤 | 「腎不全」という正式な診断名を聞いたのは20歳の時です。大学1年の2月に風邪を引いて咳がひどくなり、寒いところに行くと血痰が出るので総合病院を受診しました。自分も医師も、その症状から肺炎だと思っていたのですが、血液検査の結果を見た医師から「悪いのは腎臓や。すぐに転院!」と言われ透析のできる病院に転院しました。そこで緊急透析になり、3時間透析を3日間連続で受けたのが透析の始まりです。その後は週に3回4時間の透析になりました。 |
雁瀬 | 緊急透析になった時の説明や印象などは覚えていますか? |
中澤 | 緊急導入の時、「カリウムが8を超えているからいつ心臓が止まってもおかしくない状態です。すぐに透析をしましょう」と言われたことくらいしか記憶にないです。10mも歩けば息が上がってしまう状態ですから「この状態を何とかしてくれるなら何でもええわ」という感じでした。 |
周囲の人々の理解に支えられて
雁瀬 | 大学生活はどのように続けましたか? |
中澤 | 退院後、もう大学を辞めようかと迷いましたが思い直し、2年の春に復学しました。すでに、透析をしながら学生生活を送っていた先輩がいて、教授や大学側に透析や透析患者の生活についてしっかりと説明されていたので、良く理解していただいていました。実験などが夕方までかかる日も、僕が「透析に行ってきます」と言うと「頑張っていってらっしゃい!」と送り出されたりして苦労はありませんでしたね。周囲の友人も全く違和感なく接してくれたのが本当にありがたかったです。当時一番ショックだったのは、身体障がい者手帳を交付されたことでした。「僕は身体障がい者なんや」と社会に負い目のようなものを感じました。 |
雁瀬 | 大学での専攻から臨床工学技士になる進路に変更されたのですね? |
中澤 | それまでの治療に後悔は感じないような楽観的な性格ですが、就職や将来には不安しかありませんでした。当時通院していた病院の看護師さんから臨床工学技士を勧められ専門学校に通うことにしました。そもそも理工学系でしたので、自分の治療にも役立つし、臨床工学技士として透析の患者さんを支えていこうと決めました。 |
患者として技士として
雁瀬 | 透析病院でのお仕事はいかがですか? |
中澤 | 採用面接で「自分は患者として患者さんの立場もわかってあげられるから、透析の現場で役に立ちたい」と話しましたが、現実は就職して1年経っても患者さんの気持ちを全くわかっていないことに気づかされました。患者さんは自分よりも年齢が上の方が多く、人生の歩み方はそれぞれで、自分がそこに何か教育や介入するなどということは滅相もないという感じでした。僕が同じ透析患者だとわかると患者さんの共感は得られるかもしれませんが、患者さんへの圧力にもなるかもしれません。 |
雁瀬 | 現在、在宅血液透析(HHD)をされていますが、施設血液透析(HD)から変更したきっかけや理由、現状を教えてください。 |
中澤 | HHDをされている先輩を見ていましたし、主治医からも勧められたので変更したいと思いましたが介助者が必要なことがハードルでした。その後、結婚して妻が介助者になってくれたことをきっかけに自宅の一部を透析部屋にして開始しました。早出の場合は朝7時くらいに出勤しますので、5時半~6時の間に透析が終わる設定にしています。8時間やりますから前夜9時半くらいから始めます。自宅で夜寝ている時に透析をすれば回数も多くできて、体が楽で、健常人と同様のライフスタイルを保てます。費用負担は水道光熱費が月に1~2万円上がりますが、通院すればガソリン代も掛かりますし、クルマの消耗も考えると月に1万円くらいの出費で吸収できていると思います。自由な時間と予後はお金に代えがたいものがあります。 |
未来がある在宅透析
雁瀬 | HHDがあまり広がっていないのはなぜでしょう。 |
中澤 | 大きい理由は介助者と自己穿刺ですね。僕は仕事上、穿刺は慣れていますが普通の患者さんにはなかなか難しいかもしれません。介助者には、透析している間は家にいてもらわなければいけませんし、最初は介助のための指導も受けなければなりません。家族や夫婦の形は様々なので、どの家庭でもできるわけではありません。ただ、HDとHHDを比較すると、HDは、中2日空く場合があり、毒素も水も溜まり苦しくなりますが、HHDは1週間の回数制限はないので毎日でも透析可能です。僕は「未来があるのは在宅透析や」と思っているので、最近はそういう説明を患者さんにもしています。 長年HHDを介助されているご家族の中には、「最初の1~2年は苦労が多くて喧嘩もしたけれど、今ではもう生活の一部になっているので、それほど苦労は感じません」という方もいます。50~60代までの人には、介助者に少しの苦労をさせますが、在宅透析も選択肢に入れていただきたいと思っています。導入の手順としては機械が自宅に送られてきて、少し物々しいですが、メンテナンスは臨床工学技士が月に一回巡回して機械を見ていますし、トラブルがあった時は24時間体制で電話対応や駆けつけてサポートします。そのために臨床工学技士がいるという感じです。「施設なら行って寝ているだけで全部スタッフがやってくれるのに、わざわざ家で苦労してやるのは大変じゃない?」とよく言われますが、自分が長生きするためにやるという目的を忘れてはいけないと思います。 |
雁瀬 | 最後に、腎臓病の患者さんにメッセージをお願いします。 |
中澤 | 患者さんは十人十色で皆さん様々な考えがあり、僕のようにあまり深く考えずに透析を続けてきた人もいれば、うつっぽくなる方もいます。しかし、希望もありますから悲観的にならずに自分なりに道を探していれば何とか開けてくると思います。僕は27年間、透析で生活できています。自分で歩いて、ゴルフなども楽しんでいますし、家族と旅行に行くこともできます。これが治療へのモチベーションを維持することにもつながっています。 |
インタビューを終えて
ご自身を「不良患者でした」と言う中澤さん。自暴自棄になった時期を乗り越えて、今では中学生から保育園児の4人のお子さんと奥さまがいて、家族との笑顔の写真、ゴルフ道具、こだわりの愛車、在宅透析機器もあって、自宅は『幸せ基地』のようでした。素敵な生き方を見せていただき、ありがとうございました。
雁瀬美佐