体験談 / 一病息災 Vol.130(2024年10月号)
腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 雁瀬美佐がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
- 移植
三好 こずえ さん(みよし こずえ)
膵腎移植で繋いでもらった命を
大切に丁寧に楽しんで生きる
1型糖尿病の症状が進み、父親からの膵腎同時移植。膵臓が廃絶し、脳死下提供で再移植。隠していた病気を周囲に話すことで前向きになり、結婚も患者会の設立もされました。長い闘病と治療、今の暮らしと夢についてお聞きしました。
聞き手:雁瀬 美佐(腎臓サポート協会)
年齢(西暦) | 病歴・治療歴 |
---|---|
1975生まれ | |
11歳(1986年) | 1型糖尿病発症。インスリン注射開始 |
30歳(2005年) | 糖尿病性網膜症発症。網膜レーザー治療、左眼硝子体手術 |
31歳(2006年) | 糖尿病性腎症発症。腎臓移植可能な病院へ転院。腎保存期(3年) |
33歳(2008年) | 膵腎同時移植手術のために転院 |
34歳(2009年) | 父親からの生体膵腎同時移植。2週間後に膵臓廃絶 日本臓器移植ネットワークに膵臓移植待機登録 |
38歳(2013年) | 脳死下提供による膵臓移植 |
49歳(2024年) | 現在、膵臓・腎臓ともに生着。フルタイム勤務と膵腎移植者・待機者の会会長として活動 |
1型糖尿病をひた隠す20年
雁瀬 | ご自身が病気だとわかったのはいつ頃ですか。 |
三好 | 11歳、小学6年生の時にすごく痩せたんです。喉が乾いていつもだるくて、近くの内科では原因がわからず、市民病院に行って1型糖尿病だと診断され、そのまま入院しました。糖尿病には1型と2型がありますが、その当時は違いもわからず、不摂生をした大人がなるイメージが強かったので、子どもなのに自分はそんな病気になってしまったという恥ずかしさがありました。母も周りから心無い言葉をかけられ、隠れて泣いていたのを覚えています。 |
雁瀬 | つらかったですね。学校生活にはどのように影響しましたか。 |
三好 | 朝、インスリン注射を打ってから学校に行きますが、低血糖になって倒れてしまうのではないかという怖さがあって、毎日嫌な気持ちで過ごしていました。食事も、母がグラム単位で計算したり、ソースやマヨネーズをかけずに食べていたので、食事はいつも残念でした。とにかく楽しめなかったですね。 |
雁瀬 | その生活がずっと続きながらも、安定はしていたんですね。 |
三好 | そうですね。インスリン治療や食事療法を続けていましたが、1型糖尿病であることを親友にも職場にも一切言っていなかったので、友だちと旅行やご飯に行っても隠れて注射を打っていました。でも打ち明けていないと、良いタイミングでインスリン注射を打つことができなくて、血糖コントロールがうまくできないこともありました。そうやって過ごしているうちに30歳になって糖尿病性網膜症を発症し、眼のレーザー治療や左眼硝子体手術をしました。 |
糖尿病を受け入れ、気持ちが前向きに
雁瀬 | それで本格的に合併症の治療もすることになったのですね。 |
三好 | はい。その後、仕事を辞め、眼底出血のたびに入院していましたが、その入院が人生の転機になりました。同じ病室で同じ病気の子が、お見舞いに来た友人たちと病気のことを隠さずに明るく話をしている姿が羨ましくて、自分の病気との向き合い方がガラッと変わりました。発症してから20年間ずっと、病気のことを調べることもなかったのですが、これから自分に起こることをきちんと知って、もっとしっかり生きていこうと決心し、病気のことを周りに打ち明けました。打ち明けてみると、案外人って気にしてないっていうのがわかって、気持ちも楽になり、考え方も前向きになり、自信もつきました。 |
雁瀬 | 同じ病気の人を見て変わるきっかけがあったのですね。腎臓が悪くなっていることはいつ気づきましたか? |
三好 | 眼科に入院中の血液検査で先生から腎臓内科にも診て見てもらった方がいいと言われたんです。クレアチニンが高くなって、足や体のむくみ、倦怠感が出ていました。腎臓が悪くなったら血液透析しかないと思っていましたが、移植という選択肢もあって、いつかその選択をしないといけないと聞いたのは31歳の時です。40歳まで生きられるか不安でした。まだ結婚もしてなかったのですが、子どもを産める可能性も残したいと思い、家族とも話し合って腎臓移植ができる病院に転院し、しばらくはそこで保存期を過ごしていました。 |
雁瀬 | 移植手術まではどのような経緯で進みましたか。 |
三好 | 1型糖尿病の私は膵腎移植という選択肢もあり、県内の大学病院に膵腎移植をする先生がいらしたので、講演会を聞きに行きました。すごい熱量でお話されているのを聞いて「この先生なら助けてくれる」「頑張れる」っていう気持ちになったんです。その病院ではまだ1例しか実施されていなかったのですが、信じることにしました。 |
生体膵腎移植と脳死膵臓移植
雁瀬 | 膵腎移植の決断と準備を進めたのですね。 |
三好 | 当時60歳の父が膵臓と腎臓の提供を言い出してくれました。とても悩みましたが、母の「お父さんに甘えなさい」という言葉で決断できました。父から膵臓の半分と腎臓一つを同時に移植しましたが、膵臓は血栓ができて2週間で廃絶してしまい、その夜、手術の痛みと父に申し訳ない思いで一晩中泣きました。そんな私のところに、点滴に繋がれた父が来て、自分だって痛いしつらいのに冗談を言ってくれたんです。父は本当にすごい人です。幸い、腎臓は生着したので、長持ちさせるためにも、いつか膵臓を再移植できればと思い、主治医と相談して日本臓器移植ネットワークに登録しました。 |
雁瀬 | 膵臓移植の機会が回ってきた時はどんな状況でしたか。 |
三好 | よく覚えています。父からの移植手術から3年半ほど経った頃、職場で電話を受けました。夜中も枕元に携帯を置いて電源をオンにして心の準備もしていたのですが、いざ連絡がくると動悸が止まらなかったです。その日のうちに移植手術を受けました。ICUで目が覚めると父と母がいて「成功したよ」と言ってくれたので、私は「ありがとうございます」と伝えました。 |
生体膵腎同時移植後のICUにて
雁瀬 | 術後はいかがでしたか。 |
三好 | 術後の血液検査で、もう血糖値が正常値でした。今まで何十年もインスリンを打ってずっと大変だったので、涙が溢れました。1週間後、合併症で腸閉塞になりましたが、絶対良くなるんだと信じてお腹をさすりながら「大丈夫、大丈夫」と膵臓に話しかけていました。崇高な思いで提供してくださったドナーさんの臓器を自分で守るんだという気持ちでした。 |
雁瀬 | それからもう10年ですね。 |
三好 | むくみがなくなり、体も軽くなり、爪も髪も伸びるし、食事制限もなくなり、夜はぐっすり眠れて、とにかく格段に生活が楽になりました。血液が巡っている実感があります。 |
雁瀬 | 体調がよくなって、夢が膨らみますね。 |
三好 | 父と膵臓を提供してくださったドナーさんには感謝しきれません。家族とドナーさんの膵臓と共に少しでも長生きすることが恩返しだと思っています。私は移植後に結婚もしました。一人旅もしましたし、夫と釣りをするようにもなりました。親の介護もしたいし、甥っ子の成長も見守りたいし、夫に幸せだと言い続けたい。やりたいことがたくさんあって楽しみです。 |
雁瀬 | 同じ病気や経験をもつ方の患者会「カキツバタ会」を運営されていますね。 |
三好 | 私は移植手術の時すごく不安だったんです。経験者の話が聞け、不安を共有できたら心強いと思って「カキツバタ会」を始めました。カキツバタは愛知の花で花言葉は「幸せは必ず来る」。私たちにピッタリの言葉だと思ってみんなで決めたんです。1型糖尿病も腎臓病も、体が悪くなるとそこで人生終わりみたいな気持ちになってしまいますが、病気や治療のことを調べたり、信頼できる医師や治療がみつかるまで行動をしてほしいと思います。同じ病気の方との話や悩みの共有は安心を生みます。私が30歳の時に変われたように、今の私が同じ病気の誰かの小さな救いになれば嬉しいです。 |
夫と
夫の趣味の釣り、“良い運動になってます”
昨年、両親と東北四大祭りにて“父も元気です♪”
インタビューを終えて
小さい時からの糖尿病との闘い、お父様からの臓器提供と廃絶。思い出し、涙をこらえながらお話してくださいました。自分のことより、家族や同じ病気の人を思える今は、優しいご主人と生活を楽しんでいらっしゃることがしっかり伝わってきました。私も勇気づけられ、心から応援したいと思いました。
雁瀬美佐