体験談 / 一病息災 Vol.131(2025年1月号)

腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 雁瀬美佐がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
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古川 信幸 さん(ふるかわ のぶゆき)

患者さんの体験談~一病息災~ vol.131

「どう生きたいか」から始まる
腎臓病に支配されない悔いのない人生へ

病気と付き合いながら、いかにより良く生きるか。古川信幸さんは働き盛りの40歳で腎臓病と診断され、55歳まで悔いのない人生を生きると誓い「健常者とほぼ同様に働くこと」と「経済的な自立」を目指し、治療に向き合いました。現在75歳。今も悔いなき人生の続きを歩まれています。
聞き手:雁瀬 美佐(腎臓サポート協会)

年齢(西暦) 病歴・治療歴
37~8歳頃 尿潜血、血圧に異常値が続いたが、仕事に忙殺され精密検査せず看過
40歳(1989年) 手足が痺れ、総合病院受診。慢性腎不全と診断される
41歳(1991年) 勤務先の産業医と移植治療を視野に熟慮。専門医の病院に転院
43歳(1992年) 腹膜透析開始
51歳(2000年) 大動脈解離及び大動脈弁不全、腎嚢胞
54歳(2004年) 生体腎移植手術
75歳(2024年) 現在、移植後フォロー中

悔いなく生きる決意

雁瀬 腎臓を悪くされたのは何歳の頃でしょうか。
古川 おそらく37~8歳だと思います。尿潜血、尿たんぱくが続き、勤務先の医務室で血圧を測ったら上が155もありました。産業医には精密検査を受けるように幾度か勧められたのですが、当時は会社の危機的転換期にあり、猛烈に仕事が忙しく結果的に看過してしまいました。その状態で2年経過した頃、とうとう手足に痺れが出て総合病院に行き即入院、慢性腎不全と診断されました。血圧の上は197あり、腎生検もおこなえないほど進行していました。
雁瀬 そこからどのような治療が始まったのでしょうか。
古川 診断を受けて、目指したことが二つあります。それは「健常者とほぼ同様に働くこと」と「経済的な自立」です。まず、勤務先の産業医と移植治療を視野に熟考し、推薦された専門医のいる総合病院に転院しました。転院したあとの主治医の言葉が忘れられません。「これまでの古川さんは大型車で世界一周をしていたようなもの。だけど50ccのバイクで世界一周する人もいるのよ。これからはバイクをしっかり整備して時間をかけていきましょうよ。だから保存治療は、しっかりやらなくちゃだめ。バイクで世界を巡れることを体現する人が世の中に一人でも二人でも増えることは、誰かの希望になります」
 そして、この保存期間をどれだけ伸ばすかが非常に大切だと付け加えられました。それは、いずれおこなう透析は非常に辛いけれど、保存治療時の食事管理や水分管理といった健康管理を自分で徹底的にできた人は頑張れる。またその先、腎移植ができたとしても、健康管理ができていなければだめ。徹底した管理を習慣化することが大切だと教えていただきました。そこからできるだけ緻密な管理を始めました。まず食品成分表の本を購入し、手製の摂取食事分析表を常に携帯して、グラム単位の把握に努めました。それから現在に至るまで35年間毎日欠かさず、喫食分析(移植後は主なメニュー)と血圧と脈拍、体重、歩数、投薬などを記録して管理を続けています。

ノート

雁瀬 かなり進んだ状態でも徹底した食事や生活管理で2年半も保存期を維持されていますね。それでも腎代替療法が必要になった時、どのように受け入れられたのですか。
古川 透析を始めたのは43歳です。主治医に「私の寿命はいくつですか」と聞くと、答えは「55歳までは現役で働けるように頑張りましょう」でした。それを聞いた私は“自分の現役人生寿命は55歳”と設定しました。そこからの12年、絶対に悔いのない生き方をしようと誓ったんです。透析は、仕事を続けていくために、通院する時間的制約と負担が軽減できるCAPD(持続携行式腹膜透析)を選びました。主治医が、会社の医務室に透析交換に必要な清潔な環境を整えることと機材を置く交渉などを丁寧にしてくれたことで、CAPDを始める環境はスムーズに整いました。自分の身体や生活環境を清潔に保つこともほぼ完璧に管理でき、家庭でも会社でも概ねCAPDの生活は順調でした。一週間程度の海外出張も経験しました。とはいえ、自分が前向きに仕事に取り組み、周囲の理解を得るよう努力することが一番大変で辛くもありました。「CAPD治療で自身の病気を理解し、医師、担当看護師とのコミュニケーション、指導を通じて、真剣にかつ前向きに治療と向き合うこと」。それは、その後経験した移植手術、がん治療、怪我の手術、多くの感染症などの治療にも役立ちました。

それぞれの幸福を大切にしてこその治療選択

雁瀬 治療法を変更する過程はいかがでしたか?
古川 1日に3回のCAPDが4回になって、50歳を超えてから5回もおこなうようになった頃、排液に異常が現れ、HD(血液透析)への移行とその後の移植の可能性について本格的に考えはじめました。折しもそんな時期に、大動脈解離にともなう大動脈弁不全になりました。人工血管・人工弁置換手術はうまくいったのですが、腎嚢胞になり、術後服用した血液抗凝固剤の影響もあり、大出血して死にかけたのです。いよいよもうCAPDでは無理という話になり、54歳の時に生体腎移植をすることになりました。実はその何年も前から親族の一人が腎臓の提供を申し出てくれていました。移植の申し出はもちろん大変ありがたいですが、慎重に考え、その親族には丁重に辞退の意を伝えました。
雁瀬 その後、どうやって腎臓の提供を受けることを決心されたのですか。
古川 私は、この病気になって、人は誰もが自分らしさ、アイデンティティをもち、それぞれの幸福を大切にしないと楽しく生きていけないということに気づきました。誰かに頼るとか、人を恨んだり自分を卑下したり、なんで自分だけが不幸なのかと思ったり……。病気になるとそんな自己嫌悪に陥ったりすることもありますが、病気に支配されてはつまらない人生です。そういった私の考えを知った上で、「古川信幸の人生が続くということが自身の幸福でもある」と言ってくれる新たな提供の申し出がありました。移植手術が終わったら「腎臓を提供したとか、されたとか」の話は一切しないことを互いに約束をしました。それは、うまくいかないような時に「貸し借りの関係」だと、お互いの人生に「病気の支配」が及び、暗い谷底に落ちてしまうと思ったからです。主治医の先生も交えて何度も話し合い、この価値観を共有できたので、移植に踏み切れました。

古川さん

自分らしく生きるために大切なこと

雁瀬 移植後の生活について教えてください。
古川 術後一週間ほどで、それまでずっと頭にかかっていた薄い霧が晴れたかのような感覚になり、書類の理解度が劇的に向上したのを覚えています。貧血症状も改善し、やがて健常者と同じ勤務をこなせるようになり、スポーツや旅行などのさまざまな制限もしだいに縮小して、食事制限も緩和されていきました。しかし、移植時に医師から受けた言葉「自由と解放を得たと勘違いしないこと」を肝に銘じ、免疫抑制剤服用による感染症、がんの発症率などさまざまな課題を十分理解して、提供者の意思を無為にしないためにも、継続的な自己管理を怠らないことを心がけました。
 そうして目標にした55歳を超え、グループ会社の役員にも就き、60歳まで勤めました。引退後は、趣味の料理を楽しむ毎日を過ごしています。料理が趣味になったのも元はと言えば病気が理由です。腎臓病患者の食事はとても寂しいものです。ならば、できるだけ楽しくしてみよう。病気で得た学びがここでも活きました。今では美しい器、カトラリーや陶芸作家の作品を集め、クリスマスのブイヤベースやローストビーフ、おせち料理も自分でつくり楽しんでいます。現在、75歳。腎がんの摘出手術や新型コロナウイルスの感染も乗り越え、思い描いた悔いなき人生の続きを楽しんでいます。
雁瀬 同じ腎臓病患者さんに向けてメッセージをお願いできますか。
古川 腎臓病は、自分の生き方にあった病院を探すことが大切です。また、経済的な自立がとても重要です。仕事においては無理をしないことは大切ですが、「無理しないでね」という言葉に甘えたままだと、これまでの世界が変わり出します。もちろんそれぞれの病状や職業、環境に違いはありますが「経済的な自立」は治療の一環であり、自分らしく生きていける道と思っています。
 慢性腎不全発覚後35年、腎移植後20年、現在まで支えていただいた歴代の主治医、多くの手術、治療に当たられた医師や看護師の皆様に心から感謝しています。慢性腎不全の治療には移植治療が決定的に優位であると思います。それだけに日本固有の死生観、風土文化などの障害はあるものの、献腎移植への普遍的な社会の理解が進み、健康な人の体にメスを入れないような時代を心から望んでいます。

夫と

夫の趣味の釣り、“良い運動になってます”

昨年、両親と東北四大祭りにて“父も元気です♪”

インタビューを終えて

闘病の長い道筋を共にする病院や信頼できる主治医との出会いは、偶然ではなく、目標や強い意思を持って行動するからこそ辿り着くのだと思いました。厳しい闘病の中でも仕事や家庭、趣味に楽しみを見い出しながら過ごされている前向きな姿を拝見し、私もこのようにありたいと思いました。

 

雁瀬美佐

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