体験談 / 一病息災 Vol.58(2011年8月号)

腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 松村満美子がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです)
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杉田 倶子 さん(すぎた ともこ:1947年生まれ)

義母、母、父の介護が 9年間もできたのは、兄の右腎をいただいたお蔭
1947年生まれ。25歳のとき、最初の妊娠でタンパク尿を指摘され、慢性腎炎の診断を受ける。その後17年にわたる保存期は高血圧症に悩まされ、1993年、46歳のときに腹膜透析を導入。1997年、50歳で兄をドナーとして生体腎移植を受け、2000年から9年間、3人の親たちの介護にあたる。腎臓サポート協会 理事。

患者さんの体験談~一病息災~ vol.58

当協会設立当初から、患者代表の理事としてご協力いただいてきた杉田倶子さんに、ご自身のことについて話していただきました。杉田さんは17年間の保存期を経て、46歳で腹膜透析を導入。阪神・淡路大震災のときは、芦屋市のご自宅でAPD(夜間腹膜透析)をやっている最中だったとのこと。その後お兄様からの生体腎移植を受けて14年。その間、夫君と力を合わせてご両親3人を9年間介護して見送られたという体験をお持ちです。

献腎移植の登録をした妹に兄が「ぼくのを」と言ってくれて

松村 杉田さんは腎移植を受けて、今年で何年になるのですか。
杉田 移植を受けたのが1997年なので、今年で14年になります。兄からの生体腎移植で、兄が56歳、私が50歳のときでした。
松村 お兄様が腎臓をくださったいきさつは?
杉田 それまでの腹膜透析が非常に順調だったので移植は考えていませんでしたが、主治医の先生から「移植が最良の治療ですよ」というアドバイスを受け、私自身も「いつまで腹膜がもつのだろう」という気がしてきて、臓器移植ネットワークに登録することにしたのです。そのとき、献腎移植の機会に恵まれるのは、宝くじに当たるよりも難しいという現実を知り、家族やきょうだいにも「なかなか機会は巡ってこないようだけど、登録には行ったよ」と知らせました。すると、「それなら、ぼくのを」と兄から申し出てくれたのです。兄は倉敷中央病院の医師で、以前からほかの腎臓病の先生方に相談していて、私が登録の話をしたとき、「その時期がきた」と思ってくれたようです。
松村 お兄様のご家族の反応はいかがでしたか。
杉田 義姉も兄の意思を尊重してくれて、反対はしませんでした。兄には息子が1人いますが、甥は「おばちゃんにあげたら」と言ってくれました。。
松村 そのへんがいちばん難しいところですが、よかったですね。この14年の間に拒絶反応は? お兄様もお変わりないですか。
杉田 兄は本当に無口で静かな人で私とはぜんぜん性格が違うのですが、兄とはHLA(白血球の型)が6マッチでした。拒絶反応はまったくなく、服用している免疫抑制薬も少ない単位のようです。兄自身も変わりなく元気にしています。
松村 HLAは6マッチが最高で、合う数が多いほど生着率が高くなり、長くもつといわれていますが、双子並みの相性の良さですね。免疫抑制薬も最小限ですんでいるようですし、たぶん一生、お兄様の腎臓とおつきあいできるでしょうね。

阪神・淡路大震災のときはAPD中。落ちついて対応し腹膜炎もなし

松村 移植の前は腹膜透析をされていたのですよね。いつ腎臓が悪いことを知ったのですか。
杉田 はじめて妊娠したときにタンパク尿を指摘され、慢性腎臓病と診断されました。それが25歳のときです。けっきょく妊娠全期間を入院して安静に過ごし長女を出産、翌年には二女を出産しました。それから16年後の1993年、46歳のときに腹膜透析を導入したのですが、じつは父は小児科の開業医で、私が透析導入になったときには「気づいてやれなかった」と、父がいちばんつらそうでした。
松村 あなたご自身は大丈夫でしたか。
杉田 先生が、「せっかく透析治療で元気になったのだから楽しいことをしなさい。食べすぎとか疲れたとか心配しすぎないように。十分に透析をすれば大丈夫だから」といつも励ましてくださり、その言葉にカをもらいました。最初はCAPDで1日4回のバッグ交換をしていましたが、透析を導入してからもおしゃれをして出かけたりしてました。
松村 お出かけのときのバッグ交換は、どうされていたのですか。
杉田 昼間のバッグ交換の時間をずらして、外出から家に帰ったあとにしていました。そのほかに腹膜透析患者向けの海外旅行でハワイに行ったこともあり、ホテルや飛行機など様々な場所でバッグ交換をしましたが、いま思い出しても愉快です。その後、先生の勧めもあって、夜10時から始めて朝6時に終わるAPD(夜間腹膜透析)に切り替えました。 毎朝、「お兄ちゃん、ありがとう」とつぶやいています。
毎朝、「お兄ちゃん、ありがとう」とつぶやいています。
松村 阪神・淡路大震災のときはAPDをされていたのかしら?
杉田 APDです。さすがに目を覚まし、とっさに「自分は器械につながっているから危ない」と思いましたが、真っ暗で体も動かず、何もできない状態でした。幸い家は傾いた程度ですみましたが、洋服ダンスが器械の上に乗っかって音も聞こえず、止まっていることはわかりました。1階で寝ていた2人の娘が階下から、「お母さん、キャップして」とさけんでくれて、「ああ、そうだ」とやっと手を動かすことができました。本当にゴミが舞っているすごい状態だったので、つなぎ目を上に向けないように下に向けてキャップをしました。腹膜透析をしていたのは4年間で、私は一度も腹膜炎を起こしませんでしたが、あのときがいちばん危険だったと思います。
松村 日頃からお嬢さんたちがお母様の病気のことを理解していらっしゃったから、感染せずにすんだのでしょうね。
杉田 私がCAPDを始めたときから、自分がしている治療を家族に見せていましたし、娘たちも何かと手伝ってくれました。出口部の消毒も本当は自分でしなければいけないのでしょうが、少し甘えて、ずっと娘にしてもらっていました。そのときは、なんだか家族に守られているというか、理解されているというか、非常に心が安らぎました。
松村 最高のお嬢さんたち。腹膜炎も一度もなくて、本当に順調だったのですね。 すべてはお兄様の“腎臓”のおかげですね。
すべてはお兄様の“腎臓”のおかげですね。
杉田 腹膜透析をよくご存じない方は、「医師も看護師もいないところでやるなんて」と思われるかもしれませんが、手技を覚えて丁寧に基本通りにやればいいだけですし、痛みもなくて、「こんならくな透析でよいのか」と思うほどでした。なにより中学・高校という多感な時期の娘たちのそばにいられたのは幸せでした。

移植で元気になった体にふりかかってきた親の介護

松村 移植を受けて、APDのときよりもっと幸せになったのではないですか。
杉田 たしかに移植を受けてからの3年間は何事もなく、ワイワイ嬉しい日々でした。ところが2000年から、9年にも及ぶ介護の日々が始まりました。最初の5年が夫の母の介護で、義母は話すことも体を動かすこともできない状態でしたが、胃ろうをしていて栄養は十分、92歳で亡くなるまでおデブちゃんでした。夫が早期退職をして、2人で介護ができたので、最期まで看ることができたのだと思います。
松村 ご主人は何のお仕事を?
杉田 大阪の大丸百貨店に勤めていました。義母が亡くなったすぐあとに、父が大腿骨を骨折して精神状態が不安定になり、母の認知症もひどくなったので、倉敷市に住んでいた両親を私の家に呼び寄せました。ですが、認知症の母を在宅で看るのは本当に大変でした。義母もおしめ交換など大変なことはありましたが、話すことができないぶん悪口を言われることもなく、私も抱っこしたり頬ずりしたりと義母にはやさしくできました。しかし認知症の母は暴言を吐いたり、1日中机を叩いたりで、なかなかそうはできませんでした。
松村 本当に大変でしたね。お父様も奥様が認知症になってしまって、おつらかったでしょうね。
杉田 つらかったと思います。私の家にきた2年後に母は95歳で亡くなりましたが、父はこれが寿命だと受け止めて悲しがらなかったですね。父は私の家にきてからは精神状態が落ち着いていましたし、母のように「倉敷に帰りたい」と言うこともなく、母が亡くなった2年後に母と同じ95歳で亡くなりました。車いす生活でしたが、父は最期まで頭もクリアで、1週間前まで自分で食べることもできていました。
松村 みなさん90代と長生きされたのですね。
杉田 義母も私の両親も移植前の私の体調をよく知っていたので、まさか私に介護されるなんて想像していなかったと思います。とくに父母は長年、「無理してない? 疲れてない?」というのが私への口癖になっていて、移植後の私の姿は“奇蹟”のように映っていたと思います。
松村 杉田さんは移植でみちがえるように元気になられたのですね。
杉田 本当にそうです。私の介護生活ははじめに体の重い人を看て、つぎに心の重い人を看てというものでしたが、移植を受けていなかったら9年間の介護を乗り切ることはできなかったと思います。義母と両親を看取ったあと、私が移植手術を受けた県立西宮病院の元副院長・永野先生が患者会の会報に書かれた文章を拝見することがありました。
 それには「何をしたいために移植を受けたかということを、もう一度しっかり考え直していただきたい。それに合うように人生を過ごしているかということを考えていただきたい」と書かれていて、「ああ、そうか。私は3人の介護をするために移植を受けたのかもしれない」と思いました。介護をしているときは睡眠不足で、イライラして口喧嘩もいっぱいしましたが、「介護生活をまっとうすることができて、本当によかった」と納得することができました。
松村 すべてはお兄様の“腎臓”のおかげですね。
杉田 はい。毎朝一番のトイレで、「お兄ちゃん、ありがとう」と小さな声でつぶやいています。

インタビューを終えて

阪神・淡路大震災のとき、APD中の母を一番に気づかって声をかけてくれた2人のお嬢さん。当時看護学生だったご長女は厚生労働省で母子健康に関するお仕事に就かれ、高校生だった二女の方は結婚されて今は妊婦さん。杉田さんも赤ちゃんの誕生を楽しみにされていました。腎臓との相性はバッチリですし、介護を頑張ったぶん、これからはもっと幸せな人生が待っているのではないかしら

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