体験談 / 一病息災 Vol.61(2012年2月号)
腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 松村満美子がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです)
(職業や治療法は、取材当時のものです)
- HD
- 移植
中田 けい子 さん(なかた けいこ:1948年生まれ)
9年間のHDを経て、献腎移植の機会に恵まれ11年。「唯々感謝の日々です」
1948年生まれ。32歳のとき風邪が原因で急性腎炎になり、3年間通院。8年後の1991年1月に突然体調を崩して受診、腎不全に近いと告げられ2カ月入院。同年12月に43歳で血液透析(HD)を導入。2000年4月、52歳のとき献腎移植を受け、今に至る。
32歳のとき急性腎炎を発症し、回復したものの再び悪化、43歳で血液透析(HD)を導入。それでも「悔いなく人生を生きよう」と、透析仲間と旅行するなど前向きに過ごしていたある日の夕方、一本の電話がかかってきて……。献腎移植によって大きく変わった生活のことなど、これまでの道のりについてお伺いしました。
献腎移植を告げる電話に出張中の夫も飛んで帰ってきてくれて
松村 | 中田さんが移植を受けられたのは? | |
中田 | 11年前の2000年4月19日、52歳のときです。17日に東邦大学の病院から連絡が入り、18日の夜中に移植手術を受けたので、日付けは19日になっていました。 | |
松村 | 病院から連絡がきたのですか。 | |
中田 | そうです。私が透析をしていたのは横浜総合病院だったのですが、たまたまそこでドナーが出たそうです。腎臓は東邦大学に運ばれて、私は相川先生に移植をしていただきました。 | |
松村 | 連絡を受けたときは、どういうお気持ちでした? | |
中田 | びっくりしました。娘と夕飯の買い物から帰り、冷蔵庫に詰め込んでいるときに電話がかかってきて、「えーっ」という感じです。「入院する支度をして病院にきてください」と言われたのですが、以前透析仲間の友人にも何番目かの候補として連絡が入ったことがあり、そのときタオルをいっぱい持ってきてくださいと言われたという話が頭にあって、まず「タオル、タオル」と思いました。それから「お風呂に入らなきゃ」とお風呂を沸かし、出張中の夫の携帯に電話したら、夫は飛んで帰ってきて、車で病院に送ってくれました。夕方入院して、翌日はいろいろな検査をして、何が何だかわからないうちに終わってしまったという感じです。拒否反応もなく、3週間後には先生から「退院してもいいよ」と言われました。当時の最短記録だったようです。 | |
松村 | すごく順調。移植後、献腎で11年もっているということは、“いい腎臓”だったのですね。 | |
中田 | 相川先生からも「いい腎臓だったね」と言われました。腎臓をくださった方はもちろんですが、「提供します」と言ってくださったご家族にも、ものすごく感謝しています。娘は母親が助けてもらったからと、臓器提供意思表示カードに全部丸を付けて持っています。 | |
松村 | 感謝の気持ちが、ちゃんとお嬢さんにつながっているのですね。移植手術を受ける際、あなたのご家族はどのような反応でしたか。 | |
中田 | 実家の母は手術自体を怖がって、「しなくてもいいんじゃないの」と妹に言ったらしいのですが、妹は「こんなチャンスは宝くじに当たるより少ないのよ。やったほうがいいのよ」と母に話してくれたそうです。夫は「1日でも2日でも透析から逃れられるなら、移植を受けたほうがいい」と大賛成で、娘も同じでした。 |
「悔いなく生きよう」と透析仲間と旅行も楽しんだ9年間の透析生活
松村 | 移植後は生活も大きく変わられたでしょう? | |||
中田 |
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松村 | そもそもどういったことから、腎臓が悪いとわかったのですか。 | |||
中田 | 今から30年ぐらい前、32歳のときに風邪がきっかけだと思うのですが、急性腎炎になりました。夫は銀行員だったので転勤が多く、そのときは群馬県前橋市に住んでいて、前橋市にいた3年間はずっと病院に通っていました。その後また転勤で横浜に帰ってきて、腎臓もよくなっていましたし、夫の両親と同居することになり、いろいろ忙しくなって、病院には行かなくなってしまいました。 | |||
松村 | 疲れを感じることはなかったのですか。 | |||
中田 | まだ若かったこともあり、あまり感じませんでしたね。それが8年ぐらい経った1991年の1月、急に気持ちが悪くなり頭痛もするので病院に行ったら、「腎不全に近い。いずれ透析に入らなければいけない」と言われ、2カ月ほど入院して食事療法などを教わりました。 | |||
松村 | 退院後は同居なさっているご両親に、家事を手伝ってもらったりしたのですか。 | |||
中田 | 2人ともまだ元気でしたが、私が全部自分でやらないと気がすまない性格なので、義父母にお願いすることはありませんでした。 | |||
松村 | よいお嫁さんではあっても、その性格は腎臓にはちょっと負担になったかもしれませんね。ちなみにご自宅での食事療法はどのように? | |||
中田 | 自分が食べるぶんを先にとって、そのあと味付けして出したり、最初は本を買ってちゃんと計っていましたが、だんだんしんどくなりやらなくなってしまいました。 | |||
松村 | その結果、透析導入に。 | |||
中田 | そうです。その年の12月26日、43歳で血液透析(HD)を導入しました。そのときは体もつらかったので、「しょうがない」と思いましたが、10月にシャントを作ったときは「透析を一生やらなければならないんだ」と、何ともいえない、誰にもいえないほどショックでした。 | |||
松村 | そのときのご主人の反応は? | |||
中田 | 「しょうがない」という感じだったと思います。「私はいつまで生きられるかわからないから、悔いのない人生を送りたい。今まで通り家のことはやるけれど、これからは私のやることに文句を言わないでほしい」と夫に言ったら、「わかった」と応えてくれました。 | |||
松村 | 宣言通りの生活は送れました? | |||
中田 | 最初はすごく疲れるし頭痛もして、「やだな。これがずっと続くのか」と思いましたが、だんだん慣れていきました。また透析を通して3人のお友達ができて、情報交換をしたり、一緒に旅行にも行きました。ハワイへ行って透析をしたこともありますが、どこの透析室も親切でベッドを4つ並べてくれたり、時間の融通を利かせたりしてくれました。透析自体は大変でしたが、よい仲間に恵まれた9年間の透析生活だったと思います。 | |||
松村 | いま、その方々は? | |||
中田 | 3人とも透析を続けています。1人は別の透析室に移ったので、連絡は取り合っていません。残り2人のうち、1人は介護が必要になって電話でお話するくらいですが、もう1人とは家も近いのでよく会っています。 | |||
松村 | あなただけ移植して、お友達からうらやましがられませんでした? | |||
中田 | それはなかったと思います。私が移植してからも4人で旅行に行きました。 |
胃ガンを早期発見できたのも献腎のお蔭。感謝の心でボランティア
松村 | 移植後の11年間は、とくに問題もなく過ごされてきたのですか。 | ||
中田 | それが移植してから1年目の腎生検で胃ガンが見つかり、胃の3分の2を切除しました。その後は抗ガン剤も使っておらず、胃の担当医からも「99%再発することはない」と言っていただいています。移植していなければ腎生検を受けることもなく、胃ガンもわからなかったでしょうし、先生方からも「透析を続けていたら胃ガンが見つからなかった可能性がある」と言われました。 | ||
松村 |
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中田 | そうかもしれません。移植の機会に恵まれ、胃ガンも早めに見つかって、その後10年、何事もなくきています。ただ胃ガンの手術後は思うように食事がとれず、義父母の面倒がみられなくなったので、2人には老人ホームに移ってもらいました。毎週好物を持って訪ねましたが、義父はそれから5年後に、義母は7年後に亡くなりました。「申し訳ない」という気持ちはありますが、最後まで憎み合うこともなく、嫁と舅・姑としてはうまくいっていたのではないかと思います。 | ||
松村 | そして今は? | ||
中田 | 娘は結婚して家を出たので、夫との2人暮らしです。夫は3年前に定年を迎え、その1年後に心臓病を発症して難しい手術を受けましたが、今は元気になってゴルフもしています。私の胃ガンも夫の心臓病も東邦大学で手術をしていただき、その際も相川先生にはいろいろとお世話になりました。 | ||
松村 | 相川先生から、「中田さんはボランティアで臓器移植の行事をよく手伝ってくださる」と聞いていますが、どんなことを手伝っているのですか。 | ||
中田 | 臓器移植法の改正のときは議員さんのところに行ったり、また東邦大学にいらした各党の議員さん方に患者の立場からお話をさせていただきました。昨年の7月には大宮ソニックシティで行われたセミナーで、相川先生と看護師さん、そして小さいころに移植をなさったという方と対談しました。私はうまくしゃべれるわけではないのですが、先生に声をかけられて、「私でお役に立つことでしたら」とお受けしています。 | ||
松村 | 自分ができることで、感謝の気持ちをきちんと表していらっしゃる。素敵なことだと思います。 | ||
中田 | 献腎移植を受けていなかったら、人前でお話をする機会なんてなかったと思いますね(笑) |
インタビューを終えて
中田さんご自身も銀行にお勤めで、同僚のご主人と結ばれ寿退社とのこと。転勤の多いご主人を支えながら病気と闘い、子育て、ご主人のご両親を呼び寄せるなど頑張り屋さん。このインタビューのあと、ご主人と新宿で待ち合わせてデートとか(笑)。これからはご夫婦での旅行も楽しみですネ。お幸せに!